jの記述

日々の思考を綴ったり、書評・劇評を挙げたりします。 他にもいろいろします。

僕の高校演劇ベスト三 ~待っている人々〜

 僕の高校演劇人生が終わっちゃった。

 たかが部活に人生なんて大仰な言葉を使うなんてあり得ないと思っていたが、やっぱり人生という言葉がしっくりくる。 なんせ、二度と今という時間には帰ってこないからね。 いやぁ、ノスタルジックだな。 うん、ノスタルジック。 センチメンタル。 と、茶化して書かなきゃいけないほどにはさみしいんだけど、でも、じゃあもう一年やりますかって言われるとそれもどうかなって悩んじゃう。 公演って、終わるとまたやりたいなって思うけど、最中は結構精神的抑圧もあるし、疲れるし、正直だるくなるときもあるし。 でもやっぱりもう一回くらい演劇したかったな。 田上二郎作「待っている人々」を観劇したせいで余計に。

 まぁそんなわけで、今回は、僕が「高校演劇人生」の中でもっとも素晴らしいと感じた舞台を三つ書き記しておくことにしました。 高校演劇、というか、徳島の高校演劇の先生方の作品は、僕の文藝活動に多大なる影響を与えたから。 本当に多大なる影響を。

 それじゃあいってみよー!

* T先生作・演「待っている人々」

『corridor 素敵な小屋の四国試験演劇祭ツアーVOL.3 徳島公演』で上演されたもの。

 キャストは、僕らの一個下の世代のみで構成されている。 全員女の子。

 あらすじはこう。 

「高齢の祖母が危篤状態になり、学校から直接病院に駆けつけた未来と知世。 ところが夜の10時を過ぎ11時を過ぎても、祖母はまだ生きている。 伯父さん一家とは十年ぶりの再会。 最後にあったとき、中三で受験勉強に忙しかった従姉妹の菜々美は今では25歳のシングルマザー。 そして、もう一人いた従姉妹の春菜は今はもうこの世に居ない」

 上演されたのは前年度末、2019年3月29日、30日の二日間だ。 僕は元々、29日の整理券しか予約していなかったのだが、その公演があまりにも素晴らしかったために、30日も見ちゃった。 で、やっぱり素晴らしかった。 脚本だけじゃない。 未来と菜々美の演技が非常に良質だったのだ。 元々二人は、入部当初からセンスのある役者だった。 未来役の女の子は、T先生にさえ「天才」と目され、その言葉の通り、自由で、アイデアに富んだ演技をポンポンと生み出してきた。 休部期間なんかもあって、他の人よりも練習時間は極めて少ないのにもかかわらず、それを持ち前の才能と、それから演劇に対する熱いパッションで乗り切ってきた。 ただ、あまりT先生の指導を受けていないので、演技の基礎的な部分で遅れをとっていた部分もあった。 故に、自分の力を持て余していたところがあった。 しかし、今回の公演の稽古を通して、その基盤もある程度確立した(ように僕の目には思えた。 T先生曰くまだまだ基礎訓練が足りておらず、物言いが曖昧であるらしいけれど)。

 そして、菜々美役もまた、大いなる成長を遂げていた。 彼女は、未来役とは反対に、形を造り、論理的に演技をするのには長けていた役者であったが、反面、心臓をナイフで刺すような衝撃や、染み渡る繊細さは持ち合わせていなかった。 なんというか、演技の編み目が粗く、人間の細かい部分がさらさらと抜け落ちていっているような印象があった。 それが、今回の演技ではどうだろう。 僕は、二日目の公演中、彼女の佇まいにさえ胸が詰まるものがあった。 菜々美の生きずらさ、そして未来のない空虚な絶望というものが伝わってきた。 

 この二人の絡みは、期待以上の相乗効果を生み出していて、この難解な「待っている人々」という作品を完成させてしまった。 これは驚くべきことだ。 正直な話、僕は、この公演の企画段階では、「無理だろう」としか思っていなかったのだから。 そう、この作品は理解するのも、成り立たせるのも、非常に難しい戯曲なのだ。

 死が匂い立つ病院の風景、とりとめも無い会話をする未来・知世姉妹。 その内には、好きな人とわかりあえない悲しさ、先の見えない絶望、そんなどろどろとした現代の生きづらさが現れていて、この舞台セットに似つかわしい窮屈さを感じさせる。 そして、その二人と重ねて描かれるのが、もう一組の姉妹、菜々美・春菜である。 姉の菜々美は、子供の頃、祖母に言われた「イングリッド・バーグマンみたいな、賢くてきれいな女になりますように」という言葉のままに、必死で勉強し、一流大学に入学し、しかし今は一児のシングルマザーとして、あくせくと働いて自分をすり減らしている。 その姿は、もう一方の姉妹の妹、知世の将来のようにも暗示される。 だが祖母は、妹の春菜に対しては「ビビアン・リーみたいにきれいになれ」と願いをかける。 しかし彼女は自殺する。 菜々美は、妹が死んだときに初めて、彼女はわたしよりも不幸だったんだと気づく。 作中で、未来は自殺志望の女子高校生だという明示がある。 しかし、それぞれの姉妹に、それぞれの不幸せがあり、もしかしたら、その全員が死のうと考えたことがあるのかも知れない。 ふと、アスファルトに空いた深い穴に落ちるように、春菜だけが違う世界に行ってしまったという、ただそれだけのことなのかもしれない。 でも、それはとってもさみしいことだ。

 未来は、その寂しさを、祖母の今際に感じ取るのだ。

 利己的に描写される母の姿。 排他される菜々美と春菜の父、範雄(ぶにょーんと太った親父)、そしてその愛人のアジア女性、パメラとカミル(範雄は彼女らに多大なる金銭を貢いでいる)。 祖母が、菜々美たちの継母に厳しく当たったという挿話。 そして、幽霊となり、誰にも視認されない春菜。

 様々な要素が指し示すのは、現代の孤独と、それを包み込む愛である。

 姉妹たちが幽霊を探すシーンや、損得勘定を投げ出し、国籍も違う女の人に大きな愛情を注ぐ範雄の姿、そして母でさえ、ラストの場面の近くでは、真に優しい声音で、辛い菜々美に、「今度うちに遊びに来て」と手をさしのべる。

 いろいろなものが混ざり合う過程、そして可能性をリアリズムの手法でもって描いた、赦しの演劇であった。

 そんな難解で素晴らしき作品を、成り立たせてしまった二人の若き実力、そして勿論他の役者にも(正直な話しを言えば、演技力は上記の二人に劣るものの、自分がやるべきことをきちんとこなせていた)敬意を表する。 

 

芸術における調和(ハーモニー)の在り方〜作品の長短からの省察〜

 妙に気に入らない芸術がある。 気に入らない、というより、気持ちの悪い芸術。 そういうものに足りないのは調和(ハーモニー)なんじゃないかと思う。 芸術における調和とは何か。 それは、未だ正確にわかっていない。 ただ、その概念は確かにあるということだけはすとんと身体に馴染む。

 まず、小説を手にとって考える。 まず、仮説として、小説における調和は、そのページ数が長くなればなるほど難しくなるということを挙げてみる。 この文章は、この命題を証明するためのものだと捉えていただきたい。

 例えば、太宰治の「人間失格」は非常に面白い。

 

人間失格 (新潮文庫)

人間失格 (新潮文庫)

 

 語り手、大庭葉蔵は、一般的な価値基準からいえば、相当に逸脱した人物である。 しかし、作者は、一人称の特性をうまく利用し、その内面・心理を緻密に描きだすことに成功している。 故に読者は、大庭葉蔵のことを、自らの一部として認識せずにはいられなくなる。 それだけでなく、サイドストーリーに登場するそれぞれの人物が生き生きとその存在を示しており、その世界が強く立ち上がってくる。 文章はとても心地よく、テーマ性の奥行きも申し分ない(とはいえ、あまりにも日常的な人間の心理に焦点を当てすぎて、死生・宇宙的な広がりは感じられない。 故に、この作品は世界の名だたる総合小説*1には数えられない。 だが、そのことは決してこの小説の価値を下げる事柄ではないし、あくまで人間の目線で物事を描く姿勢は、この作品においてはむしろ成功しているだろうが)。 ただ、要素要素が有機的につながっていく気持ち良さが欠如している感覚を受ける。 構成が悪いのか、いや、そもそも構成の良し悪しはどこで決まるのだ? いわゆるシナリオブックなんかでは、度々「起承転結」「序破急」などというフォーマットが紹介される。 

 

ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)

ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)

 

 

しかし、それはあくまでエンターテイメント的に「読ませる」ための構成であり、美しさのための構成とは乖離していると言えるだろう。 では「美しい」構成とは何だろう。 それがわかれば、調和のための大きなファクターとなりうるだろう。 しかし、長編小説において、それは非常に困難を極める。 なにせ、作者は、その能力を先ほど挙げた「構成」という要素に大きく注ぎ込まねばならないからだ。 頭の中で様々なことが交錯してしまい、小説から溢れ出してしまう。 故に、調和が崩壊してしまう。

 現に、太宰治の短編をのぞいてみると、これは驚くほどに調和している。 人物・テーマ・文章・構成・タイトル、どれをとってみても最高の水準である。 中でも僕のおすすめは短編集「ヴィヨンの妻」だ。 

 

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

 

 収録されている作品群の中でも、僕は、表題作「ヴィヨンの妻」、「母」、「おさん」がお気に入りだ。 

 作品のページ数が短くなるとハーモニーが取りやすくなる現象は、他の作家をとってみても概ね当たっている。 また、印象的な話にはなるが、自分で作品を描くときも、短い方が調和しやすい。

 短ければ短いほど調和は取りやすいし、長ければ長いほど取りにくい。 これは比例の関係にあると言って差し支えないだろう。 次は、また別の観点から、この理論の実装を捉えていきたい。 

 

*1:村上春樹さんが提唱した小説概念。 氏曰く、「いろいろな世界観、いろいろなパースペクティブをひとつの中に詰め込んでそれらを組み合わせることによって、何か新しい世界観が浮かび上がってくる」ような小説のこと。 例として、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を挙げている

僕のポメラ……。

僕のポメラ*1が壊れてしまった。 僕は、深い、深い、まるで魂が抜け落ちたような消失感に苛まれた。 ポメラはもはや僕の一部であった。 彼がいないことは、自身の欠落を意味した。 この感覚は恋人や家族を失ったものに似ている気がした。

 僕のポメラは、液晶が点滅を繰り返し、なんの文字も発してはくれない。 キーボードを叩いてみても、全く静かだった。

 勿論、修理はする。 しかし、インターネットで検索してみると、どうやら二万円ほどもかかるらしい。 それは、僕とって決して小さい額ではなかった。 それだけあれば約三十五冊の文庫本が購入できるのだから。 とはいえ、そのことはさほど重要なことではなかった。 問題は、ポメラが帰ってくるまでの間である。 二〜三週間くらいらしい。 耐えられる気がしない。 もはやポメラの喪失は、僕の創作世界さえも侵してしまうように思えた。 あぁ、もう、どうして落としてしまったのだろう。 どうして正規のケースを買っておかなかったのだろう。 僕はバカだ。 とにかく、それまではPCでの執筆となる。 僕は大きなため息をついた。

 

 

*1:キングジムから発売されているワープロガジェット

純粋恋愛論と束縛・嫉妬

 非常に困窮している。 非常に後悔している。 僕は基本的に他人に興味が湧かない性質故に、この文章を書くゆえんとなった事件のことさえほとんど気づいてなかった。 その外面は事件というほどに劇的なものではない。 しかし、僕の考えでは、恋愛をしている時、その一切は事件の連なりである。 故に、これもまた事件の一種だと捉えていただきたい。 全く、僕という人間は、恋愛に相当依存しているのだ(依存しているという表現が正確かどうかは定かではないが、一度そう定義する)。 
 簡単に言えば、僕は知らぬ間に束縛をしていたということである。 昨日、彼女に言われてしまった。 「重い」と。 僕の嫉妬と束縛は、彼女の内に鉛のように堆積し、その自由を奪っていた。 勿論、彼女はそういうことを深刻に告げることはなかった。 そして、それはいっそう僕に大きな不安をもたらした。 その不安が、関係の解消についての不安だと言うことが、僕に強い焦燥を与えるのだ。 僕は、あくまで純粋に彼女のことを思いやりたいと思っている。 関係の解消についての不安というのは、「僕」の感情である。 それはあくまで僕についての心配でしかないし、それはとても寂しいことだ。 だから僕は純粋なる愛を手に入れたい。 その結果として自分自身が幸せになれたとしたらそれはとても良いことだと思う。
 束縛と嫉妬に話を戻す。 まず、その二つの概念の区別から述べる。
 束縛とは、対象の行動を恣意的に制限することである。 世の中に「良い束縛」と「悪い束縛」というものが存在している以上それは相手の意思に関わらず定義されるべきだ。 今回の場合はそれを恋愛に限らせていただく。 そして、その要因は嫉妬には限らない。

 二つ目、嫉妬とは何か。 僕は独占欲だと思う。 それに溺れたのだ。
 僕の独占欲は、保護者に迫るまでになっていた。 昨夜それをはっきりと自覚した。 彼女の帰りが遅いのを心配し、不眠症を注意した(なんなら僕は彼女の寝床まで指定した。 でもそれに関しては反論の余地がある。 だって彼女、布団で寝ないんだもん)。 こんな出来事もあった。 五時間ほど彼女と連絡がつかなくなった時のこと。 僕は約五〇〇件ほどのスタンプと、五〇件ほどの電話を行った。 事件に巻き込まれていないかと危惧した。 後輩にも聞いて回った。 僕は焦った。 しかし結論は、ただ彼女の携帯が壊れていただけだった。 僕は拍子抜けした。 また、僕は、彼女が授業中にクラスの男子と話すだけでそのことを揶揄した。 揶揄、というか、話さないでとお願いした。 しかも、その以前には、一度、彼女が眠っている間に携帯を見てしまったこともあった。 それについて何も弁解の余地はない。 僕は自らの精神の安定をはかるために、彼女の信頼を裏切ったのだ。 最も、彼女は僕にそれほどの信用を働いてはいないだろうが。 僕は人間的に破綻しているから。 さらに極めつけに、僕は彼女の男の親友との接触を断ってくれと頼んだ。 二人が完全なる友情関係にあるということは重々理解していたつもりだったが、実際、他の男の人の、ごつごつとしたてのひらが彼女に触れることに強い嫌悪感を感じてしまった。 僕は、そのことについてしつこく彼女を説得した。 彼女は、木訥に納得した。 けれど、それは本意とするところではないということもわかっていた。 でも僕は止められなかった。 僕はエゴイズムと彼女の間で苦悩した。 している。 しかし僕の懊悩などは、彼女が抱えている諸々に比べれば些細なことだろう。 僕はいつもつまらないことで傷つき、立ち直り、焦燥し、安心し、好きだと思い、好きだと思っている。 タイプしている間に、僕のこころの中には、自虐の情が湧いてきた。  僕みたいな人間と一緒にいることは、彼女にとって不幸だと思った。 僕は、束縛・嫉妬しないように努力する。 それは決定事項だ。 だが、それはあくまで理性的な方向付けの上にある行動である。 つまり、自然な人間の生理的反応とは乖離する。
 彼女は、僕の嫉妬している様自体が嫌だと言った。 おそらく、(間違っていたら本当に申し訳ないし、情けないが)彼女は、他の男子と話したり、親友にボディタッチをしたり、そういうことをしたいわけではないのだと思う。 たぶん。 言葉の通り、彼女はやはり、独占欲を剥き出しにする僕のことが嫌いなのだと思う。 
 結局、僕はどうすればいいんだろう。 今回のことに関しては、もう方針は決まっているし、たぶん仲直りはできるだろうと思う。 たぶん。 というか仲直りできないと泣いてしまう。 彼女を純粋に思いやることで、さらに恋愛への依存から脱却することで束縛と嫉妬を抑えるようにする。 かつまた、それについて今一度彼女と話し合って、今度は、お互い合意の元に、(前回は、僕の弁舌でやりこめる形で収束してしまったから。 今ではそれを悔いているのに)二人のあり方を決めていければ良いと思う。 
 最後にして、少し本題とは外れる。 僕と彼女との間には茫漠たる壁がある。 それをひとつひとつ取り払うことは非常に途方がない。 彼女は、僕が彼女と一緒にいることで、僕が面倒くさく感じるのではないかということを漏らすことがある。 面倒くさい。 しかし、僕は彼女のことが大好きだ。 だから、その二人の世界を少しづつ融和していけたらいいと切に願う。 そして、何かの間違いで、この文章が彼女に届けばいいと祈る。

素敵な嫉妬

 素敵な嫉妬ってあるだろうか。 あって欲しいと僕は思う。 僕は、よく彼女に嫉妬する。 本当に良く嫉妬する。 勿論元彼にも妬いてしまうし、昔好きだった人なんてさらなりだ。 学校のグループワークなんかでも他の男子と話をされるのはものすごく僕を苛立たせるし、何ならみんなの前でうなじや生足を出されるのも嫌だ。 彼女の魅力を知られたくない。 他の男に欲情されたくない。 僕だけが彼女を感じていたい。 世界中にとんでもなく性格の悪い女だと思われても良いから、僕以外の男に対しては、豚小屋の豚を見るような蔑んだ視線で接して欲しい。 もしそうしてくれるなら、僕はなんでもするつもりだ。 彼女はとっても人格者だからそんなことはしてくれないのだろうけど。 なんなら、僕は女友達にさえ妬いてしまうというのに。 彼女は冗談でレズビアンのような行動を取るから。

 僕は、今も彼女に嫉妬している。 その炎は紫色の光を発して囂々と燃え盛っている。 同時に、僕は不思議に思う。 この火の元はどこだろうと。 僕の炎はどこから来るのだろうと。 僕は、妬いた時は「妬いた」と言う。 彼女はたいていあきれる。 幼子に「どこにも行かないよ」と諭す母親のように。 僕だって分かっている。 彼女は浮気なんかしないって。 たまに彼女が他の男子と話したとして、それは恋愛的な興味から来るものではないし、その男子もそれしきのことで勘違いしたりはしないと(だいたい、僕と彼女がつきあってることは、他校の生徒だって知ってるのだから)。 けれど、僕は、そこにいるのが「男」と「女」であるというだけで、得も言えぬ不安と焦燥に駆られてしまって、全く物事の分別がつかなくなるのだ。 そういうときだけは、いつもはチキンな僕なのに、「孕め」などという野性的な欲望が噴出させることもある。 常はゴムをつけていても、その上安全日に執り行っても妊娠していないかと不安で不安で仕方が無いのだが(それには僕の唱える「生の恐怖」とも言える裏付けがあるのだ)、他の男と話している間なんかは、本当に、着床させてやろうなどという気になる。 勿論実際にはしないけれども。 とにかく、それくらいには、僕の嫉妬はどす黒い。

 しかし、彼女はそんな醜い欲求を静かに受け止めてくれる。 僕がどんなに些細なことで怒ってしまったときも、何も言わずに許してくれる。 それどころか、僕の嫉妬をうれしがってくれるときさえある。 その姿がとっても可愛らしくて、僕はますます彼女を好きになる。 そこに、嫉妬の中にある素敵な部分を垣間見ることができる気がする。 

 ここで生じるのは恋と愛の二律背反である。 いや、そもそも恋とは何か愛とは何か、その定義がわからない。 その核の外側にはジャングルのようにねじ曲がった蔦や、枝がぐるぐる巻きになっていて、その本質は覗くことが出来ない。 嫉妬は、なんとなく恋な気がする。 なんとなくだけど。 性欲とかも恋って感じ。 恋は一過性で一方通行、愛は半永続的な繋がり、そういうイメージ。 でも、皮肉なことに、恋は達成されなければ苦しいのに、愛はそんなことは気にしないように思う。 そもそも、愛は恋の延長線上にあるのだろうか。

 ただ、嫉妬されて嬉しい、嫉妬して苦しい、そうやって、お互いがお互いにエゴイズムをぶつけ合って、ずぶずぶと堕ちていく。 そういう関係は、もはや愛なんじゃないかとも思う。 僕はちょっと憧れている。 ただ、僕の彼女は、なかなか僕に妬いてくれないのだ。 「私が本命でありさえすれば、他の女の子と遊ぶのはjくんの自由」らしい。 しかも、それが彼女の浮気願望を指し示すものではなく、 純粋な僕の幸福を願っての言葉だというのだからこれまたとっても腹の立つことだ。 へっ! わかってねーぜ。 全然わかってねーよ。

 桃色のハグも、赤いキスも、柔らかな愛も良いけれど、ちょっとは素敵な嫉妬もね。

小説の人物描写における思想と感覚

 僕は小説が好きだ。 僕は小説の人物が好きだ。 そして僕は小説を書く。 小説家になりたいと思っている。 その際に、読者が、こいつと友達になりたい、と感じるような、そういう人物を描きたいのだ。 それは何も、読者に媚びた美青年だの美少女だのを出すというのではなくて、「人間」というものをそこに誕生させたいのだ。 先ほど、自分の好きな小説という物を色々並べてみた。 そうして分析してみると、必ずしもそのすべての小説の登場人物に対して好感を抱いているかといわれればそうではなかった。 別に小説のすべてがそこできまるなどとは思っていないし、そうではない小説ももちろん好いているというのを前提として申しあげさせていただくならば、僕の小説に出てくる人物はそうあってほしくない。 なんというか、それらの作品の人物は、他人行儀なのだ。 僕が前回書いた「三十八億年のなれそめ」という短編小説があるのだが、それもその類いに属する。 その人物の瞬間瞬間の感覚や思いというのは伝わってくるのだが、なんというか、内面がのぞけない。 核が見えないのだ。 書いていて気づいた。 先ほどは「思想」なのかと考えたが、やはり、私が触れたいのは人間の核なのだ。 そして、人間の核には、その感覚、人間関係、そういうものから、もちろん先ほど挙げた思想まで、いろいろな物が含まれているだろう。 それを描きたい。 僕は、また小説を書こうと思っている。 「恋愛における魂の融和性」にインスピレーションを与えた、僕の恋の話だ。

 

j-diary.hatenadiary.com

 

 勿論、私小説などということにはしない(僕は私小説を認めないという結論に達しているのだが、それはまた別の機会にお話しする)。 虚構であるが故の、文学的美学を持って、それを描写する。 その上で、その世界での人間という物を、写実感をもって表現したいと思うのだ。 その手法は、多種多様に及ぶが、正直な話未だに分からない。 だから、次回の小説で、その尾っぽでも掴むことが出来れば良いなと思う。 それが、リアリズムなのではないかと思う。 

人権教育否定論

日本のドウトクキョウイクは腐っている。 戦前から今まで、長い長い間その体勢は変わることが無く、おどろおどろしい臭いがそこらにぷんぷんしている。 今日、学校で部落差別についての授業を受けたのだが終始貧乏揺すりが収まらなかった。 何がそんなに、といえば、この国は全くディスカッションをさせてくれないのだ。 ただひたすら、壇上の教師が凝り固まった文言を繰り返すだけ。 そして生徒は長年の調教によって、それに対する反抗心を失っている。 この構造は非常に危うい。 勿論部落差別はいけないことだと思う。 部落のものに限らず、差別というのは自己存在を社会に求めてしまうが故に起こる弱気な行動である。 つまり、周りをキョロキョロ確認しながら自らの立ち位置を決めていると言うこと。 これは世界的にも有名な日本人の「空気を読む」性質とも関連してくるであろう。 一般にこの性格は、日本が島国の単一民族国家だからなどと言われがちだが、弥生時代から江戸時代まで様々な国との交流があったことを考えればその説にはいささかの不具合を感じずにはいられない。 この説の検証には資料を基に実証的な研究が必要であるのでまた別の記事で記述する。 これから先は僕個人の説なのだが、日本人の過剰な共感性というのは、宗教性の欠如から起こるのでは無いかと思うのだ。 つまり、欧米諸国と違い、信仰の対象を神では無く社会・権威に求めているのでは無いかと言うことだ。 いやしかし、飛鳥時代鎮護国家思想や鎌倉仏教の例を見る限りそれも一概には言えないのか。 なんだか日本史が勉強したくなってきた。 だとすれば、村社会であったことが一番の要因となってくるのだろうか。 これは、他国の小規模社会との対照観察が必要となってくる。 とにかく、こうした日本人の特徴を踏まえると、日本のある種宗教的なドウトクキョウイクは非常に危険だと言える。 部落差別が始まる前、国は差別を推奨するように洗脳していた。 それが今では、差別を廃止するように洗脳している。 中身が変わっただけだ。 そのやり口は何も変わらない。 学校は言う。 「人権問題を克服するには、正しい知識が必要だ」と。 正しいとは何だろうか。 知識とは何だろうか。 それが正確な情報だとだれが保証するのだろうか。 僕には、確かなことなんて、この世の中には一つたりとも無いと思われてならない。 ただ、それでは生きづらいからと、自らの世界を規定しているのに過ぎないと思うのだ。 それと同じように、公が、個人の思想に墨を塗ろうとしている。 部落差別を考えるとき、被差別側の心理を学ぶことは大事だ。 しかし、同時に差別側に共感しながらその事象を辿ることも重要では無いのか。 お互いのグループの中に例外はいなかったのか? 現代は二元論ではない。 何か一つのものをを喧伝するのを、キョウイクと呼んで良い物だろうか。 今一度考えていただきたい。